1950〜1960年代のアメリカ人種差別を学ぶ

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この記事では、1950〜1960年代のアメリカにおける人種差別の歴史を紹介しています。洋画の中には、この時代を舞台にした映画がたくさんありますが、実際にはどのような時代だったのでしょうか?

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年表

アメリカでは、1950年代頃から南部のアフリカ系アメリカ人を中心に、人種差別反対の動きが活発になります。

1950〜1960年にかけてアメリカではこのようなことがありました。

年代出来事
1954合衆国最高裁判所が、ブラウン対教育委員会裁判において「公立学校における人種隔離」を違憲とする判決を出す。
1955バス・ボイコット運動
1956合衆国最高裁判所が、「バス車内における人種分離」を違憲とする判決を出す。
1957リトルロック事件
1961ケネディの大統領就任。黒人に公民権を認め、差別撤廃に乗り出す方針を示す。
1963ジョンソン大統領就任。
キング牧師らの指導により、約20万人がワシントン大行進を敢行。
1964公民権法の制定。
1965投票権法の制定。

バス・ボイコット運動

1955年12月1日、アラバマ州モンゴメリーで人種差別が問題となったある事件が起こり、後にバス・ボイコット運動へと発展していきます。

ある日、アフリカ系女性のローザ・パークスは公営バスに乗りました。すると、彼女は「黒人専用席」に座っていたにも関わらず、その後やってきた席のない白人客が、彼女に対して席を譲るように促します。

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ローザ・パークスはこれを断りましたが、すると白人客は運転手に「譲るように言ってくれ」と頼み、白人運転手のジェイムズ・ブレイクは、ローザ・パークスに対して、白人客に席を譲るよう命じました。

しかし、彼女がこれを拒否した結果、「人種分離法」違反として逮捕・投獄されることになり、その後罰金刑を宣告されたのでした。

人種分離法(ジム・クロウ法)
黒人の一般公共施設の利用を禁止・制限した法律。
アラバマ州では、バス、電車、病院、レストランにおいてこの法律が取り入れられた。主に、白人と黒人の座席を分けるといったものなどがある。

この一件は、多くの黒人の批判を受けることとなります。

公民権運動の指導者であるマーティン・ルーサー・キング牧師らは、モンゴメリー市民に対して、1年間にわたる「バス・ボイコット」を呼びかけ、これに対し黒人や他の有色人種、白人までもがボイコットに参加することとなりました。

この運動は全米に大きな反響を呼び、1956年には合衆国最高裁判所が、バス車内における人種分離(=白人専用および優先座席設定)を違憲とする判決を出します。

これにより、アラバマ州をはじめとする南部の人種差別反対運動は、更に盛り上がりを見せることとなったのでした。

リトルロック事件

1950年代になると、アメリカの公立学校における人種差別は次第に解消されていきます。

1954年には、ブラウン対教育委員会裁判において公立学校における人種隔離が違憲となり、これ以降、全米の学校で長年行われていた人種隔離は、廃止されていくこととなりました。

ブラウン対教育委員会裁判(ブラウン判決)
1954年、学生を白人・黒人で分離した公立学校の設立を許可するカンザス州の州法に対して行われた裁判。
黒人の子供の平等な教育の機会を否定しているとして、「人種分離した教育機関は本来不平等である」と述べられた。

しかし、人種差別的な風潮が色濃く残る南部や中西部では、人種隔離への対応がまちまちな州もありました。そのうちの一つが、アーカンソー州です。

ある日、アーカンソー州の公立学校であるリトルロック・セントラル高等学校では、9人の黒人学生が入学を妨害される事件が起きました。

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これは、当時アーカンソー州の知事であった白人至上主義者のオーヴァル・フォーバスが、再選のために白人の票稼ぎをしようと企んで行ったものです。

フォーバス州知事は、「白人過激派による襲撃事件が起きるという情報があるので学校を閉鎖する」という勝手な理由をつけ、州兵を召集させて黒人学生の登校を阻止します。

これに対し、異人種融合に反対する地元の白人も大群衆となって学校を取り巻き、黒人学生の登校に反対したのでした。

公民権運動が全米で盛り上がりを見せる中で発生したこの人種差別的な事件は、反人種差別運動家やアメリカ国内の世論、そして連邦政府からも反発を受けることとなります。

そこで、事態を重くみた当時の大統領ドワイド・D・アイゼンハワーは、フォーバス州知事に事態の収拾を図るよう命令しました。

しかし、この命令は無視され、急遽アイゼンハワー大統領はアメリカ陸軍を学校に派遣し、入学する黒人学生を護衛させることにします。

この結果、9人の黒人学生は無事に入学することができました。しかし、その後彼らは白人学生からの執拗ないじめに遭うこととなったようです。

ケネディ大統領

アメリカの第35代大統領ジョン・F・ケネディ

1960年に大統領選で当選し、アメリカの人種差別問題に対して精力的に取り組んできた人物として有名です。

大統領としての任期は、1961年1月20日〜1963年11月22日。

人種差別解消に向けて様々な計画を立てていたケネディ大統領でしたが、1963年11月22日、イベントでテキサス州を訪れダラス市内をオープンカーでパレード中に、何者かによって狙撃され死亡します。

これは43歳の時の出来事で、大統領に就任してからわずか2年10か月の在任期間でした。

アメリカ・ニューヨーク州の「旧アイドルワイドワイド空港」は、ケネディ大統領の栄誉を讃え、彼の暗殺された1963年に「ジョン・F・ケネディ国際空港」と名前が変更されています。

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ケネディ大統領は、就任中主にこのようなことを行ないました。

  • アフリカ系アメリカ人を積極的に連邦政府幹部に任命した。(黒人の連邦検事は10人から70人に、連邦判事はゼロから5人に増えた。)
  • 企業や労働組合に対して、黒人を積極的に雇うよう働きかけた。
  • 連邦政府の補助金を受けている病院や図書館での人種差別を禁止した。また連邦雇用局に対して、白人だけを雇う企業の求人を拒否するよう命じた。
  • 全米50州の中において、黒人学生の入学を拒否する学校を無くした。
  • 議会へ新しい公民権法案を提案し、直接国民に訴えかけた。(公民権法はケネディ政権下では成立しなかったが、後のジョンソン政権下において成立となった。)

ワシントン大行進

アメリカでは、1950年から1960年にかけてバス・ボイコット運動リトルロック事件など人種差別が問題となった事件が多発しました。

これらの事件は、黒人だけではなく世論や政治家の心を大きく動かし、公民権運動に対しての支援はますます広がっていきます。

そして、1963年8月28日にワシントン大行進が行われると、公民権運動は最高潮に達しました。

ワシントン大行進とは、このようなデモ活動です。

目的

「人種分離法」の下で人種分離・人種差別を受け続けていた黒人や有色人種が、公民(アメリカ合衆国市民)として、法律上平等な地位を獲得することを目的にしている。

参加者

キング牧師らの呼びかけに対し、バス・ボイコット事件のきっかけとなったローザ・パークスなど、人種差別の撤廃を求める20万人以上が参加。

アメリカ国内の各団体や、様々な人種の世界的スターも数多く参加した。(シドニー・ポワチエ、マーロン・ブランド、ハリー・ベラフォンテ、チャールトン・ヘストン・ジョセフィン・ベーカー、ボブ・ディランなど)

デモ行進は、8月1日にアラバマ州セルマを出発すると、約860マイル(1384キロ)もの距離を進み、15日に最終地点の首都ワシントンに到着しました。

キング牧師はワシントン到着後に、リンカーン記念館の階段の上で17分間にわたって演説を行ないます。

「I have a dream」で知られる彼の演説は、多くのデモ参加者の共感を得て、公民権運動をより一層盛り上げていきました。

当時のデモ行進の様子は、このように伝えられています。

リンカン大統領が奴隷解放宣言を公布してから、ちょうど100年目にあたる、この年の夏-1963年8月28日、首都ワシントンには、おびただしい人の波が、”1963年までに完全解放を!”との標語のもとに、うしおのように押し寄せた。大部分は黒人だったが、白人も少なくなかった。老いも若きも、男も女も、職にあるものも失業中のものも、あらゆる階層のあらゆる人びとが、この地にやってきた。林立するプラカードには、黒人たちの切実な願いをこめたいくつもの要求が掲げられていた。”一切の黒人差別を、ただちに廃止せよ!”、”今こそ、自由を!”、”官憲の残虐行為を、即刻やめよ!”、”白人と平等の賃金を、今すぐ!”、”新公民権法の即時無条件成立を!”等々……。どちらを向いても、”今すぐ!”という言葉が、まず目にとまった。集合予定時刻の午前10時までに、ポトマック川畔の緑地帯を目指して続々と集まってきた人びとの群れは、その中心部に聳え立つ高さ555フィートのワシントン記念塔の周辺を埋めつくし、”われら、うち勝たん”、”力強い砦”、”おお、自由を”などの歌声が、あたり一面に高らかにひびきわたった。

本田創造『アメリカ黒人の歴史』新版 岩波新書 p.207


アメリカ黒人の歴史 新版 (岩波新書)

このように多くの国民を巻き込んで行なわれたワシントン大行進は、後にアメリカの歴史を変える公民権法の制定に大きな影響を与えることとなるのでした。

ジョンソン大統領と公民権法の制定

人種差別を禁止とする法案を次々と成立させたケネディ大統領。

ダラスで凶弾に倒れますが、その後1963年にリンドン・ジョンソン副大統領がその後を継ぎ、大統領に就任します。

ジョンソン大統領は、就任以前から人種差別に対して否定的でした。また、公民権運動にも強い理解を示し、公民権法の制定に積極的だったと言われています。

実際に、ジョンソン大統領は就任後、公民権法の成立に向けキング牧師や公民権運動の指導者達と協議を重ね、また人種差別主義の議員の反対に対しても、粘り強く議会懐柔策を進めたようです。

そして1964年7月2日、ジョンソン大統領による精力的な働きかけの結果、アメリカ国内における人種差別を禁止する法律として、公民権法が制定されます。

これにより、長年アメリカで続いてきた法の上での人種差別が、ついに終わりを告げることになったのでした。

公民権法は11カ条から成りますが、その中にはこのようなものがありました。

  1. 投票権の登録において、白人・黒人に平等な基準の適用を命じる。
  2. 人種、肌の色、宗教、あるいは出身国を理由にした公共施設及びホテル、レストラン、映画館などでの差別や隔離を禁止する。また、全ての人が平等にサービス、設備、特典、利益、便宜を受けなければならない。
  3. 公立学校における人種差別の撤廃を促進するため、司法長官に訴訟を提起する権限を与える。
  4. 公民権委員会の存続期間を3年間延長する。
  5. 連邦政府からの補助金をうけている事業において、人種差別を撤廃しない場合には、公聴会を開いた後、補助金を打ち切ることとする。
  6. 法施行後1年目において、100名以上の従業員・組合員を有する企業・働組合での人種差別を禁止する。また、この禁止は4年後には25名以上の従業員を有する企業にまで拡大する。更に、平等雇用機会委員会を設置し、企業における人種差別の存否を調査や撤廃のため説得を行う。この件に関して、司法長官に訴訟を提起する権限も認める。

投票権法の制定

1964年に公民権法が制定されると、翌年の1965年8月6日には、投票時の人種差別を禁止する投票権法が制定されます。

投票権の保護は、既に制定されていた公民権法の中にも入っており、登録官は投票者への識字試験を平等に管理することや、小さな誤りであれば申請書を受領するように求めていました。

しかし、南部では公民権制定後も、差別主義者における黒人の有権者登録や投票行為の妨害が行われていたのでした。

これに対して、キング牧師など公民権運動の指導者達は、幾つかのデモ行動を行いますが、1965年2月1日に行われたデモ行進で、反パレード条例に違反したとして彼らは逮捕されてしまいます。釈放は、その4日後でした。

キング牧師が逮捕された翌日、マルコム・Xがセルマで攻撃的な演説を行うと、キング牧師の非暴力戦術に反対であった多くのアフリカ系アメリカ人からの支持を集めました。

これらの一連の出来事は国民の関心を大きく集め、はじめは投票権法の法制化を遅らせるとしていたジョンソン大統領でしたが、2月6日議会に提案を行うと宣言します。

しかし、提案の内容や議会に提出する具体的な日時は明らかにしませんでした。

その後2月18日、デモ行進中に白人士官が武装していない若い黒人男性を銃で撃つ事件が発生すると、3月7日、南部キリスト教徒指導者協議会と学生非暴力調整委員会は、投票権の問題を訴え、セルマからモンゴメリーへのデモ行進を始めます。

しかし、デモ隊がセルマに近いエドマンド・ベタス橋を渡ろうとした時、馬に乗った州兵や郡の警察がデモ行進者を停止させようと催涙弾を発砲しました。多数の死傷者を出したこの事件は、後に血の日曜日と呼ばれるようになります。

無抵抗なデモ隊に対する警察官の暴力的な行動はテレビで放送され、国民に大きなショックを与えました。

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この事件の後、武力による復讐を求めるアフリカ系アメリカ人の声があがりましたが、キング牧師はそれでも頑に武力によらない解決を目指します。

このような活動やデモ行進が続いた結果、ジョンソン大統領はついに投票権法の制定に乗り出し、3月17日に上院に提案を行います。その後、法案の見直しや修正が繰り返し行われ、1965年8月6日に投票権法の制定となりました。

まとめ

このように1950年〜1960年代にかけては、人種差別解消に繋がる多くの法律が制定され、これらは差別反対運動の大きな成果となりました。

しかし、実際には南部の黒人差別は依然として根強く、また北部の大都市では貧富の格差が拡大していったようです。

人種差別は長い年月をかけて、ゆっくりとしかし確実に解消され、現代の『人類平等』にたどり着いたのですね。

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